開催のご報告

高校生から大学生を中心に100名を超える方々にご参加いただきました。

1月27日はアウシュヴィッツが解放された日

1月27日はアウシュヴィッツが解放された日

国連が制定した「ホロコースト国際デー」でもあります。今年は1日前の26日に早稲田大学で記念事業を実施しました。

Student of Waseda University

Student of Waseda University

早稲田大学の千畝ブリッジングプロジェクト共催で、会場は大隈記念タワーの教室をお借りしました。

開会のご挨拶

開会のご挨拶

NPO法人ホロコースト教育資料センター代表・石岡史子 Fumiko Ishioka, Director of the Tokyo Holocaust Education Resource Center

開会の言葉

開会の言葉

イスラエル大使館のイリット ・ サヴィオン=ヴァイダーゴルン Ms. Irit Savion-Waidergorn, Minister of the Embassy of Israel

開会の言葉

開会の言葉

ドイツ大使館のローベルト・フォン・リムシャ公使 Mr. Robert von Rimscha, Minister of the Embassy of the Federal Republic of Germany

映画「アンネの日記 第三章~閉ざされた世界の扉」上映後、学生たちとディスカッションを行いました。

ヤーノシュ・ツェグレディさん

ヤーノシュ・ツェグレディさん

Mr. Janos Cegledy

ヤーノシュ・ツェグレディさん、イリット公使、Kokoro理事

早稲田大学千畝ブリッジングプロジェクトの皆さん、有り難うございました。

参加者の皆さんの感想より

「無関心」という言葉。憎しみや怒り、敵意という負の感情は相手を認識した上 に成り立つ。しかし、無関心は相手の存在をそもそも認識せず、言葉通り相手を「無」として扱う。これ以上 に悲しいことはない。(早稲田大学) 

人間は個人としては弱い存在で、勇気 を出して何か主張することが時に困難なことがあります。だからこそ、勇気を少しずつ出していくために、過去を繰り返し振り返 ることが大切です。(早稲田大学)

現代を生きる私の、私たちの無関心が、日本のどこかや他の国に、新たな無名のアンネ・フランクを生み出してはいないだろうか。(早稲田大学)

私たちの学校のアンネのバラ委員会では、ナチの政策からユダヤ人の子どもたちを救ったニコラス・ウィントンの映画を見たが、彼のようにユダヤ人を救える人間は非常に少なかった。(東京女学館高等学校)

社会的に弱者やマイノリティとされる人への差別は根強い。日本に関係ないなんて思うことは到底できない。(早稲田大学)

今のシリアなどの難民の置かれている状況に非常に似ている。これは残酷なことだと思っている。(湘南学園高等学校)

若い人たちの意見をきけて、とても励まされた

いつでも「与え」られるものでありたいと願います。それは、救いの手であり、愛であり、祈りであったりします。

一人ひとりが戦争の加害者であった過去と向き合う、忘れずに繰り返し伝えていくことが大切

平和のバトンを私たちも持って走りたいです。

「加害者側が事実を次世代へ伝えることの大切さ」「被害者側が手を差し伸べることの大切さ」

昔から疑問に思っていたのは、なぜ父オットーが「隠れ家」という選択肢の他にもっと安全な方法を選べなかったのかということだった。この映画で、その真相が明らかになった

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「私はホロコースト関係の映像を見るのは好きではありません。感情的になってしまって悲しいことですのでなるべく避けています。でも今日は、(アンネ・フランクの父)オットーフランクのことがメインの作品だということで参加することにしました。

 

私の父は、1936年にニュージーランドについてどこかで読んだんです。1936年というのはヒトラーが政権を獲得してからわずか3年後。でも、ハンガリーはまだ比較的平穏でした。
「ニュージーランドは良い国だから」と言い出して、家族皆で移住の申請を出しました。しかし、
オットー・フランクも映画で拒否されたように、私たちも拒絶されました。

ハンガリーは、ドイツとの経済的な結びつきが強かったため、オランダや、チェコ、ポーランド、ベルギー、フランスと異なり、すぐに占領されませんでした。第二次世界大戦勃発時は、ハンガリーはドイツの同盟国でした。

その後、ハンガリーは1944年にドイツに占領されました。1944年3月、ナチスがハンガリーにやってきて、突然ハンガリーのユダヤ人の状況が一変しました。アイヒマンが、ユダヤ人の強制収容所への移送を始めました。

 

私の父は1942年からユダヤ人によって組織された労働者の組合というか、軍なんですけども武器を持っていなかったですね、そういうものを組織していました。ドイツ人が来たわけですが、その時にハンガリーにあったユダヤ人労働部というものが解体させられて国外退去となりました。そこで他のユダヤ人もそうなんですけど私の家族も家から追い出され、まず「ユダヤ人の家」というところに移住させられ、そのあと「ゲットー」と言われる居住区に移住させられました。

 

ブダペストの「ゲットー」は他と異なり、ユダヤ人以外の人も暮らしていて、同じ学校に通っていました。私の母は「ユダヤ人の家」からバックパック一つを持って強制移送させられました。父もです。

 

幸運なことに私の父も母も生還することができました。父はオーストリアのマウトハウゼン強制収容所に入れられましたが、米軍によって解放されました。映画でも、(解放直後の収容所で)死体が転がっているところが写っていましたが、(父もあのような中にいて)アメリカ人が父が微かに動いた瞬間を見つけたんですね。「この人は生きているぞ!」ということで救出され、病院で介護してもらいました。そのとき父の体重は28キロでした。私の父は杖を突きながら生還してきたわけですけど、その時にニュージーランドに移住したいと言ったんですね。そのころには、親戚が伯父が市民権を得ていましたので、ニュージーランドに移住することができました。

 

私はニュージーランドで育ったわけですけども奨学金を得てドイツに留学することになりました。1960年代の初めだったんですけども、ドイツに留学することについて父に聞いたんですね。どう思うかと。「お前にとって得るものがあるなら行きなさい」と言われました。

 

戦後15年経っても誰を信用できるのかと不安がありました。だから、私は自分がユダヤ人であることは言いませんでした。あるドイツ人が「何が行われたのか知らなかった」とか「誰にも教えてもらわなかった」とか言い始めました。「この人たちは知っていたんだな」と私は思いました。これは、1960年代の話です。

 

今日の私が最も感動したのは、ドイツ大使館のリムシャ公使が隣に座られて、あたたかい言葉をかけてくださったことです。ドイツという国は本当に変わりました。友達になれる国ですね。シリア難民の受け入れ状況を見ましても一番人道支援をしているのはドイツです。このことがすでにいかにドイツが変わったかということを物語っていると思います。」

ヤーノシュ・ツェグレディさんのお話より

1937年、ハンガリーのブダペストでユダヤ人の家庭に生まれる。

1944年3月、ナチス・ドイツはハンガリーを占領。7歳で、兄と共にゲットー(強制居住区)に送られる。10歳でニュージーランドに移り住み、ピアニストの道へ進む。1967年に初来日。東邦音楽大学や武蔵野音楽大学などで長くピアノを教える。後進の育成、音楽の普及を目的として、日本レシェティツキソサエティを1991年に発足し、現在会長を務める。

Mr. Cegledy was born in Budapest, Hungary, in 1937. At the age of 7, he was forced into a ghetto with his brother under Nazi-occupied Budapest. After the war, he moved to New Zealand and became a professional pianist. In 1968, he was invited to teach at Toho Music University in Tokyo. He also taught at Musashino Academia Musicae for many years. He is the Founder and the President of the Leschetizky Society of Japan.

Mr. Janos Cegledy

石岡 NPO法人ホロコースト教育資料センター理事長

イスラエル大使館並びに在京の各国大使館の同僚の皆様

早稲田大学の教員と学生の皆様 (早稲田大学千畝ブリッジングプロジェクト)

 

明日、1月27日は、「ホロコースト記憶の国際デー」となります。国連は、2005年に、この日をソ連の赤軍によるアウシュヴィッツ強制収容所の解放を記念する日に定めました。ドイツでは1996年以来この日を追悼記念日としております。その中心的な提唱者が、先日亡くなったローマン・ヘルツォーク元大統領でした。

 

ホロコースト教育資料センター、早稲田大学、イスラエル大使館におかれましては、ホロコースト記憶の国際デーに因み、本日、正にここ教育の場で、アンネ・フランクの映画の上映とユダヤ人大量虐殺という人類に対する犯罪をテーマとしたディスカッションを通じ、歴史を若い世代に伝える行事を開催されます。このことに対し、ドイツ大使館を代表して、厚く御礼申し上げます。フォン・ヴァイツゼッカー元大統領は、1985年の有名な演説の中で、皆様、ご存知かもしれませんが、以下のように述べました。「過去に目を閉ざすものは、現在に対しても盲目となる。」ですから、私たちは過去に目を閉ざすことのないようにいたしましょう。

 

アンネ・フランクは何百万もの犠牲者の中の一人でした。彼女は、当時のドイツ国家のドクトリンであった犯罪的な殲滅政策の犠牲となりました。 暴虐的な国家体制が、テロによって世界の半分を蹂躙しました。これがドイツの国家体制でした。ナチス信奉者、そしてどちらかといえば政治色のない普通の一般市民もまた大量殺人者となりました。ドイツがこの最も恐ろしい自らの歴史の一章から得た教訓は次のようなものです。人間軽視のイデオロギーの生まれる土壌を二度と作り出してはならない。こうしたことから、ドイツ連邦共和国の憲法である基本法は、その第一条で、以下のように明記しております。

人間の尊厳は不可侵である。

 

イスラエルとドイツは、今日、深い絆で結ばれたパートナーであり友人です。近年、若者を中心とした何千人ものイスラエル国民が、ドイツの首都ベルリンを、世界で最も魅力的な都市のひとつとみなして、この地に移り住みました。ポーランド、オランダ、フランスという当時多大な苦痛を味わったドイツの隣国の全てが、今日、EUの中で、主権国家同士の関係としてはかつてない密接な関係をドイツと築いています。それではドイツ自体はどうでしょうか。賢明なドイツ人作家で、1940年世代のペーター・シュナイダーは、最近、ここ東京で次のように語りました。「ドイツは私が生きている間に、ほとんど識別できないほどに変貌した。しかも良い方に。」

 

第二次世界大戦後の和解からも、一つの教訓を得ることができます。私の考えでは次のような教訓です。

異なる国民同士の真の深い和解のためには二つの要因がある。

 

第一に加害者側がその歴史的責任と向き合い、この罪についての認識を次世代に伝えることです。歴史は決して清算されることはなく、終わることなく、常に新たな解釈と評価がなされます。事実は、犯罪行為をも含めて、永久に残るのです。

 

第二に、和解は、当時の被害者が和解のために手を差し出すことによって初めて成立します。イスラエルはそうしてくれました。ポーランド人、フランス人、オランダ人はそうしてくれました。戦後世代のドイツ人として、私個人、このことに心の底から感謝するとともに、また同時に慙愧の念に耐えません。

 

この、ドイツの歴史上最も暗い一章と向き合うことは、長く時に困難なプロセスでした。そしてこれは何十年もの間、旧西ドイツに大きな影響を与えてきました。これにはアウシュヴィッツ強制収容所の責任者・関与者に関するアウシュヴィッツ裁判、「ホロコースト」という名のアメリカの連続テレビドラマ、68年運動など、これら全ての出来事と更にその他の多くの要因が関連していました。一つとして容易なものはなく、何一つ一夜にして起こったものではありませんでした。これも当然といえるでしょう。

 

誰よりもここ早稲田大学で学ばれている皆様のような日本の若者にとっても、こうした歴史の一章と取り組むことは意義のあることだと考えます。これは多くの点において、今なお現代性を失っていない一章なのです。数週間前に安倍 晋三首相が真珠湾を訪問し、数ヶ月前にバラク・オバマ大統領が広島を訪れました。ユダヤ人大量虐殺という人類に対する犯罪は、類例のない出来事でした。しかし、異なる国民同士の関係が、今日に至るまで、何十年も前の行為による負の影響を受けているということは、決して他に例のない出来事ではありません。

 

こうしたことから、皆様にとり、今宵が知見を大いに広める晩となりますことを願っております。

 

ご清聴ありがとうございました。

ドイツ大使館 ローベルト・フォン・リムシャ公使より
イスラエル大使館 イリット・サヴィオン=ヴァイダーゴルン公使

 "A NATION'S STRENGTH IS IN ITS MEMORY – THAT’S WHAT DIFFER US AS HUMANS. AND IF WE WANT TO LIVE, IF WE WANT TO PASS ON THE MESSAGE OF LIFE TO THE NEXT GENERATIONS, IF WE BELIEVE that WE MUST PAVE THE ROAD FOR THE FUTURE, THEN WE MUST FIRST NOt FORGET AND WRITE DOWN".

פרופסור בן-ציון דינור, ידיעות יד ושם, 1956) PROF BEN ZION DINOR, 1956

IN 2005 THE UN GA has decided that THE 27TH OF January will be commemorated world wide as the intenational holocaust memorial day. That day was chosen as this is the day Auschwits – Birkenau, the worst of all death camps, the symbols of all the horrors was liberated by the Red Army.

Today and tomorrow, in many countries, this date will be commemorated. THE UN DECISION IS A TESTIMONY THAT THE INFLUENCE OF THE HOLOCAUST HAS NOT PASSED AND NOT EVEN DEEMED, THE WORLD IS STILL LOOKING FOR WAYS TO REMEMBER THIS HUMAN TRAGEDY AND ITS VICTIMS AND TO MAKE SURE THAT THIS KIND OF GENOCIDE WILL NEVER HAPPENED AGAIN. AN IMPORTANT PART OF THE DECISION IS EDUCATION. EDUCATING PEOPLE TO REMEMBER, TEACHING THE FACTS.

We are honored to have with us here today a holocaust survivor, dear Janos, but every day we lose more survivors and if not us, who will be there to tell?

 

When we come today to talk about the Holocaust SHOAH, one must always remember that  the history of the world have seen genocides, have seen massive killing, but none was so organized, so systematic , so universal and so aimed to erase from the face of the earth  a whole nation -  the Jewish people and their history.

We remember today the 6 million Jews that perished in the holocaust, we remember with them the many innocent victims of those dark times in history and we promise to remember and not to forget, to tell, so the world will never forget.